う云う力競《ちからくら》べを何回となく闘《たたか》わせた。その内に追い追い二人とも、疲労の気色《けしき》を現して来た。彼等の顔や手足には、玉のような汗が滴《したた》っていた。のみならず彼等の着ている倭衣《しずり》は、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼等は息を切らせながら、必死に巌石を擡《もた》げ合って、最後の勝敗が決するまでは容易に止《や》めそうな容子《ようす》もなかった。
彼等を取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、益々強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも闘鶏《とうけい》や闘犬《とうけん》の見物《けんぶつ》同様、残忍でもあれば冷酷でもあった。彼等はもう猪首の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、余りに強く彼等の心を興奮の網に捉《とら》えていた。だから彼等は二人の力者《りきしゃ》に、代る代る声援を与えた。古来そのために無数の鶏、無数の犬、無数の人間が徒《いたず》らに尊い血を流した、――宿命的にあらゆる物を狂気にさせる声援を与えた。
勿論この声援は二人の若者にも作用した。彼等は互に血走った眼の中に、恐るべき憎悪を感じ合った。殊に背《せい》の低い猪首《いくび》の若者は、露骨にその憎悪を示して憚《はばか》らなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶然とは解釈し難いほど、あの容貌の醜い若者の足もとに近く転げ落ちた。が、彼はそう云う危険に全然無頓着でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいて来る勝敗に心を奪われているのかも知れなかった。
彼は今も相手の投げた巌石を危く躱《かわ》しながら、とうとうしまいには勇を鼓《こ》して、これも水際《みぎわ》に横《よこた》わっている牛ほどの岩を引起しにかかった。岩は斜《ななめ》に流れを裂《さ》いて、淙々《そうそう》とたぎる春の水に千年《ちとせ》の苔《こけ》を洗わせていた。この大岩を擡《もた》げる事は、高天原《たかまがはら》第一の強力《ごうりき》と云われた手力雄命《たぢからおのみこと》でさえ、たやすく出来ようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱くと、片膝砂へついたまま、渾身《こんしん》の力を揮《ふる》い起して、ともかくも岩の根を埋《うず》めた砂の中からは抱え上げた。
この人間以上の膂力《りょりょく》は、周囲に佇《たたず》んだ若者たちから、ほとんど声援を与うべき余裕さえ奪った観《かん》があった。彼等は皆息を呑んで千曳《ちびき》の大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から滴《したた》り落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた後《のち》、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの好《よ》い声援の叫びではなく、思わず彼等の口を洩《も》れた驚歎の呻《うめ》きにほかならなかった。何故《なぜ》と云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ擡《もた》げ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、一分《いちぶ》ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに突兀《とつこつ》たる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を額《ひたい》に乱して、あたかも大地《だいち》を裂《さ》いて出た土雷《つちいかずち》の神のごとく、河原に横《よこた》わる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。
五
千曳《ちびき》の大岩を担《かつ》いだ彼は、二足《ふたあし》三足《みあし》蹌踉《そうろう》と流れの汀《なぎさ》から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好《い》いか渡すぞ。」と相手を呼んだ。
猪首《いくび》の若者は逡巡《しゅんじゅん》した。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、
「よし。」と噛《か》みつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱《だ》き取ろうとした。
岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく緩漫《かんまん》であった。と同時にまた雲の峰が堰《せ》き止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、狼《おおかみ》のように牙《きば》を噛みながら、次第にのしかかって来る千曳《ちびき》の岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は刹那《せつな》の間《あいだ》、大風《おおかぜ》の中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を埋《うず》めた鬚《ひげ》を除いて、見る見る色を失い出した。そうしてその青ざめた額から、足もとの眩《まばゆ》い砂の上へ頻《しきり》に汗の玉が落ち始めた。――と思う間もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、一分《いちぶ》ずつ、じりじり彼を圧して行った。彼はそれでも死力を尽して、両手に岩を支えながら、最後まで悪闘を続けようとしたが、岩は依然として運命のごとく下って来た。彼の体は曲り出した。彼の頭も垂れるようになった。今の彼はどこから見ても、石塊《いしくれ》の下にもがいている蟹《かに》とさらに変りはなかった。
周囲に集まった若者たちは、余りの事に気を奪われて、茫然とこの悲劇を見守っていた。また実際彼等の手では、到底千曳の大岩の下から彼を救い出す事はむずかしかった。いや、あの容貌の醜い若者でさえ、今となっては相手の背《せな》からさっき擡《もた》げた大盤石《だいばんじゃく》を取りのける事が出来るかどうか、疑わしいのは勿論であった。だから彼もしばらくの間は、恐怖と驚愕《きょうがく》とを代る代る醜い顔に表しながら、ただ、漫然と自失した眼《まなこ》を相手に注ぐよりほかはなかった。
その内に猪首の若者は、とうとう大岩に背《せな》を圧《お》されて、崩折《くずお》れるように砂へ膝をついた。その拍子《ひょうし》に彼の口からは、叫ぶとも呻《うめ》くとも形容出来ない、苦しそうな声が一声《ひとこえ》溢《あふ》れて来た。あの容貌の醜い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚めたごとく、猛然と身を飜《ひるがえ》して、相手の上に蔽《おお》いかぶさった大岩を向うへ押しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけない内に、猪首の若者は多愛《たわい》もなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音と共に、眼からも口からも夥《おびただ》しく鮮《あざやか》な血を迸《ほとばし》らせた。それがこの憐むべき強力《ごうりき》の若者の最期《さいご》であった。
あの容貌の醜い若者は、ぼんやり手を束《つか》ねたまま、陽炎《かげろう》の中に倒れている相手の屍骸《しがい》を見下した。それから苦しそうな視線を挙げて、無言の答を求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見廻した。が、大勢の若者たちは麗《うら》らかな日の光を浴びて、いずれも黙念《もくねん》と眼を伏せながら、一人も彼の醜い顔を仰ぎ見ようとするものはなかった。
六
高天原《たかまがはら》の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装《よそお》う事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な嫉妬《しっと》を示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と御目出度《おめでた》さとに残酷な嘲笑《ちょうしょう》を浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。
こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの猪首《いくび》の若者の記憶は、未だに彼の心の底に傷《いた》ましい痕跡《こんせき》を残していた。この記憶を抱《いだ》いている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞恥《しゅうち》の情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の目《ま》なざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。
彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を繞《めぐ》る山間の自然の中《うち》に時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい山鳩《やまばと》の声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆《あし》と共に、彼の寂寥《せきりょう》を慰むべく、仄《ほの》かに暖い春の雲を物静な水に映していた。藪木《やぶき》の交《まじ》る針金雀花《はりえにしだ》、熊笹の中から飛び立つ雉子《きぎす》、それから深い谷川の水光りを乱す鮎《あゆ》の群、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには愛憎《あいぞう》の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。
時々彼が谷川の石の上に、水を掠《かす》めて去来する岩燕《いわつばめ》を眺めていると、あるいは山峡《やまかい》の辛夷《こぶし》の下に、蜜《みつ》に酔《よ》って飛びも出来ない虻《あぶ》の羽音《はおと》を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座《とうざ》どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫《らくばく》たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎《なげ》くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣《けもの》のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。
彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏《かしわ》の梢《こずえ》に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天《あめ》の安河《やすかわ》の河原《かわら》に近く、碁石《ごいし》のように点々と茅葺《かやぶ》き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食《かしょく》の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに跨《また》がりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を揺《ゆす》って、折々枝頭の若芽の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と囁《ささや》いて行くように思われた。
「素戔嗚《すさのお》よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」
七
しかし素戔嗚《すさのお》は風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を高天原《たかまがはら》の国に繋《つな》いでいたか。――彼は自《みずか》らそう尋《たず》ねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、私《ひそ》かに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく不似合《ふにあい》の感じがしたからであった。
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