に立ち上った。舟はその間も帆《ほ》に微風を孕《はら》んで、小暗《おぐら》く空に蔓《はびこ》った松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。

        三十四

 舟はとうとう一枚岩の前へ釆た。岩の上には松の枝が、やはり長々と枝垂《しだ》れていた。素戔嗚《すさのお》は素早く帆を下すと、その松の枝を片手に掴《つか》んで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に岩角《いわかど》の苔《こけ》をかすって、たちまちそこへ横づけになった。
 女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔を擡《もた》げて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩を抱《いだ》いている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその途端《とたん》に、片手に岩角を掴《つか》んだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、後《うしろ》へ引き残した女の裳《もすそ》を、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴を漏《も》らした。が、それぎり身を起す気色《けしき》もなく、また前のように泣き入ってしまった。
 彼は纜《ともづな
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