を配《くば》って行った。松は水の上まで枝垂《しだ》れた枝を、鉄網のように纏《から》め合せて、林の奥の神秘な世界を、執念《しゅうね》く人目《ひとめ》から隠していた。それでも時たまその松が、鹿《しか》でも水を飲みに来るせいか、疎《まばら》に透《す》いている所には不気味なほど赤い大茸《おおたけ》が、薄暗い中に簇々《そうそう》と群《むらが》っている朽木も見えた。
 益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然|人煙《じんえん》の挙《あが》っている容子《ようす》は見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、高麗剣《こまつるぎ》の柄《つか》にこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。
 その内に舟は水脈《みお》を引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に紛《まぎ》れなくなった。のみならずほどなくその姿は、白衣《びゃくい》の据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟の舳《みよし》
前へ 次へ
全106ページ中99ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング