》を松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、
「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不審《ふしん》でしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。
女はやっと顔を挙げて、水の上を罩《こ》めた暮色の中に、怯《お》ず怯《お》ず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の夕明《ゆうあか》りのような、どことなくもの悲しい美しさに溢《あふ》れている事を知ったのであった。
「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでも浚《さら》われたのですか。」
女は黙って、首を振った。その拍子《ひょうし》に頸珠《くびだま》の琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》が、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、否《いや》と云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇に上《のぼ》って来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙に沾《うる》んだ眼を、もう一度|
前へ
次へ
全106ページ中101ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング