膝《ひざ》へ落してしまった。
「では、――ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」
 彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上《かわかみ》の部落の長《おさ》をしている、足名椎《あしなつち》と云うものであった。ところが近頃部落の男女《なんによ》が、続々と疫病《えきびょう》に仆《たお》れるため、足名椎は早速|巫女《みこ》に命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛名田姫《くしなだひめ》と云う一人娘を、高志《こし》の大蛇《おろち》の犠《いけにえ》にしなければ、部落全体が一月《ひとつき》の内に、死に絶えるであろうと云う託宣《たくせん》があった。そこで足名椎は已《や》むを得ず、部落の若者たちと共に舟を艤《ぎ》して、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た後《あと》、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。

        三十五

 櫛名田姫《くしなだひめ》の話を聞き終る
前へ 次へ
全106ページ中102ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング