痕《あと》を刻んでいた。

        三十三

 それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、未嘗《いまだかつ》て彼の足を止《とど》めさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一臂《いちび》の労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「素戔嗚《すさのお》よ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」
 彼は風が囁《ささや》くままに、あの湖を後《あと》にしてから、ちょうど満七年の間、はてしない漂泊《ひょうはく》を続けて来た。そうしてその七年目の夏、彼は出雲《いずも》の簸《ひ》の川を遡《さかのぼ》って行く、一艘《いっそう》の独木舟《まるきぶね》の帆の下に、蘆《あし》の深い両岸を眺めている、退屈な彼自身を見出したのであった。
 蘆《あし》の向うには一面に、高い松の木が茂っていた。この松の枝が、むらむらと、互に鬩《
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