たり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ漲《みなぎ》って来た。
三十二
素戔嗚《すさのお》はその湖の水を浴びて、全身の穢《けが》れを洗い落した。それから岸に臨んでいる、大きな樅《もみ》の木の陰へ行って、久しぶりに健《すこや》な眠に沈んだ。が、夢はその間も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静に彼の上へ舞い下《さが》って来た。――
夢の中は薄暗かった。そうして大きな枯木が一本、彼の前に枝を伸《のば》していた。
そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、柄《つか》に竜《りゅう》の飾《かざり》のある高麗剣《こまつるぎ》を佩《は》いている事は、その竜の首が朦朧《もうろう》と金色《こんじき》に光っているせいか、一目にもすぐに見分けられた。
大男は腰の剣《つるぎ》を抜くと、無造作《むぞうさ》にそれを鍔元《つばもと》まで、大木の根本へ突き通した。
素戔嗚はその非凡な膂力《りょりょく》に、驚嘆しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、
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