気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫《せきばく》に溢《あふ》れていた。
「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――彼はそう思いながら、貪《むさぼ》るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿《たど》って見ても、容易に彼には思い出せなかった。
 その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋《うず》める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄《せんりつ》が伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない雷《いかずち》のように轟《とどろ》いて来た。
 彼は喜びに戦《おのの》いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を塞《ふさ》ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより途《みち》はなかった。
 湖は日に輝きながら、溌溂《はつらつ》とその言葉に応じた。彼は――その汀《なぎさ》にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣い
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