た》彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど鉛《なまり》の板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に聳《そび》えた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に癒《い》やす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を下《おろ》して、寂しい水面《みのも》へ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。
 すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原《たかまがはら》の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵《してき》のすべてであった。――彼は両手に顔を埋《うず》めて、長い間大声に泣いていた。
 その間に空模様が変った。対岸を塞《ふさ》いだ山の空には、二三度|鍵《かぎ》の手の稲妻《いなずま》が飛んだ。続いて殷々《いんいん》と雷《いかずち》が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を孕《はら》んだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、俄《にわか》に湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。
 雷《いか
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