ずち》が猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その途端《とたん》に天を傾けて、瀑《たき》のような大雨《おおあめ》が、沛然《はいぜん》と彼を襲って来た。
三十一
対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ち罩《こ》めた雲煙《うんえん》の中に、ややともすると紛《まぎ》れそうであった。ただ、稲妻の閃《ひらめ》く度に、波の逆立《さかだ》った水面が、一瞬間遠くまで見渡された。と思うと雷《いかずち》の音が、必ず空を掻《か》きむしるように、続けさまに轟々《ごうごう》と爆発した。
素戔嗚《すさのお》はずぶ濡れになりながら、未《いまだ》に汀《なぎさ》の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛《かいもう》の底へ沈んでいた。そこには穢《けが》れ果てた自己に対する、憤懣《ふんまん》よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を恣《ほしいまま》に洩《も》らす力さえ、――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ涸《か》れ尽きていた。
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