もう》をとる事も度々あった。犬は時々前足を飛ばせて、酔《よ》い痴《し》れた彼を投げ倒した。彼等はその度に手を叩いて、賑かに笑い興じながら、意気地《いくじ》のない彼を嘲り合った。
 ところが犬は一日毎に、益々彼等に愛されて行った。大気都姫はとうとう食事の度に、彼と同じ盤《さら》や瓶《ほたり》を、犬の前にも並べるようになった。彼は苦《にが》い顔をして、一度は犬を逐《お》い払おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼の我儘を咎《とが》め立てた。その怒を犯してまでも、犬を成敗《せいばい》しようと云う勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬と共に、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつも盤《さら》を舐《な》め廻しながら、彼の方へ牙《きば》を剥《む》いて見せた。
 しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅れて、例の通り瀑《たき》を浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃は相不変《あいかわらず》、谷間の霧の中に開いていた。彼は熊笹《くまざさ》を押し分けながら、桃の落花を湛《たた》えている、すぐ下の瀑壺《たきつぼ》へ下りようとした。
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