その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒い獣《けもの》が動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰の剣《つるぎ》を抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣を揮《ふる》わせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、瀑壺《たきつぼ》の外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。
それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に中《ひた》りながら、洞穴の奥に蹲《うずくま》って、一夜中《ひとよじゅう》酔《よい》泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉妬《しっと》で一ぱいであった。が、その嫉妬の浅間《あさま》しさなどは、寸毫《すんごう》も念頭には上《のぼ》らなかった。
ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ埋《うず》めていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼を抱《いだ》きながら艶《なま》めかしい言葉を囁《ささや》いた。彼は意外な眼を挙げて、油火《あぶらび》には遠い薄暗がりに、じっと相手の顔を透《す》かして見た。
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