えない網のように、じりじり彼の心を捉《とら》えて行った。

        二十九

 素戔嗚《すさのお》は一日の後《のち》、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃げた事も知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心を装《よそお》っているとは思われなかった。むしろ彼等は始めから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。
 この彼等の無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一月ばかり経って見ると、反《かえ》って彼はそのために、前よりも猶《なお》安々《やすやす》と、いつまでも醒《さ》めない酔《よい》のような、怪しい幸福に浸《ひた》る事が出来た。
 一年ばかりの月日は、再び夢のように通り過ぎた。
 するとある日女たちは、どこから洞穴《ほらあな》へつれて来たか、一頭の犬を飼うようになった。犬は全身まっ黒な、犢《こうし》ほどもある牡《おす》であった。彼等は、殊に大気都姫《おおけつひめ》は、人間のようにこの犬を可愛がった。彼も始は彼等と一しょに、盤《さら》の魚や獣《けもの》の肉を投げてやる事を嫌わなかった。あるいはまた酒後の戯《たわむ》れに、相撲《す
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