には今までにない、爽かな力に溢《あふ》れているようであった。
 彼は後《あと》も振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗い栂《とが》や樅《もみ》の空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。
 やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は梢《こずえ》の山鳩《やまばと》を眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべき木《こ》の実《み》は、どこにでも沢山あった。
 日の暮は瞼《けわ》しい崖《がけ》の上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹の鋒《ほこ》を並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、剣《つるぎ》や斧《おの》を思いやった。すると何故《なぜ》か、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだ幻《まぼろし》であった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑を禦《ふせ》ごうとした。が、あの洞穴の榾火《ほたび》の思い出は、まるで眼に見
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