涙は実際彼の煩《ほお》に、冷たい痕《あと》を止《とど》めていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明《ほたあか》りに照らされた、洞穴《ほらあな》の中を見廻した。彼と同じ桃花《とうか》の寝床には、酒の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする大気都姫《おおけつひめ》が、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目《びもく》の形こそ変らないが、垂死《すいし》の老婆と同じ事であった。
彼は恐怖と嫌悪《けんお》とに、わななく歯を噛みしめながら、そっと生暖《なまあたたか》い寝床を辷《すべ》り脱けた。そうして素早く身仕度《みじたく》をすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。
外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は藤蔓《ふじづる》の橋を渡るが早いか、獣《けもの》のように熊笹を潜《くぐ》って、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、苔《こけ》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]、梟《ふくろう》の眼――すべてが彼
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