罩《こ》めていた。が、素戔嗚の心の中には、まるで大暴風雨《おおあらし》の天のように、渦巻く疑惑の雲を裂《さ》いて、憤怒《ふんぬ》と嫉妬《しっと》との稲妻が、絶え間なく閃《ひらめ》き飛んでいた。彼を欺《あざむ》いたのはあの娘であろうか。それとも牛飼いの若者であろうか。それともまたこの相手が何か狡猾《こうかつ》な手段を弄して、娘から勾玉を巻き上げたのであろうか。……
 彼はずるずる若者を引きずりながら、とうとう目ざす小家《こいえ》まで来た。見ると幸《さいわい》小家の主人は、まだ眠らずにいると見えて、仄《ほの》かな一盞《いっさん》の燈火《ともしび》の光が、戸口に下げた簾《すだれ》の隙から、軒先の月明と鬩《せめ》いでいた。襟をつかまれた若者は、ちょうどこの戸口の前へ来た時、始めて彼の手から自由になろうとする、最後の努力に成功した、と思うと時ならない風が、さっと若者の顔を払って、足さえ宙に浮くが早いか、あたりが俄《にわか》に暗くなって、ただ一しきり火花のような物が、四方へ散乱するような心もちがした。――彼は戸口へ来ると同時に、犬の子よりも造作《ぞうさ》なく、月の光を堰《せ》いた簾の内へ、まっさか
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