よくこう答えると、もう若者には用がないと云ったように、夕霞《ゆうがすみ》のたなびいた春の河原を元来た方へ歩き出した。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河原蓬も、空も、その空に一羽啼いている雲雀《ひばり》も、ことごとく彼には嬉しそうであった。彼は頭《かしら》を挙げて歩きながら、危く霞に紛れそうな雲雀と時々話をした。
「おい、雲雀。お前はおれが羨ましそうだな。羨ましくないと? 嘘をつけ。それなら何故《なぜ》そんなに啼き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀。返事をしないか。雲雀。……」

        十八

 素戔嗚《すさのお》はそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行《はや》り出した。それは醜《みにく》い山鴉《やまがらす》が美しい白鳥《はくちょう》に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の哂《わら》い物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。
 しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、
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