う燕《つばくら》の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端《とたん》に、彼女は品《ひん》良《よ》く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。
 彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶《あいさつ》の点頭《じぎ》を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後《あと》を追って、やはり釘《くぎ》を撒《ま》くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井《ふきい》の側へ歩み寄って、大きな掌《たなごころ》へ掬《すく》った水に、二口三口|喉《のど》を沾《うるお》した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己《おのれ》自身を嘲《あざけ》りたいような気もしないではなかった。
 その間に女たちはそよ風に領巾《ひれ》を飜《ひるがえ》しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴《ふ》き井《い》から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った
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