《はおと》を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座《とうざ》どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫《らくばく》たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎《なげ》くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣《けもの》のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。
 彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏《かしわ》の梢《こずえ》に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天《あめ》の安河《やすかわ》の河原《かわら》に近く、碁石《ごいし》のように点々と茅葺《かやぶ》き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食《かしょく》の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見え
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