せ私は犠《いけにえ》になるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、――」
「御待ちなさい。」
彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。
「私はあなたをおめおめと大蛇の犠《いけにえ》にはしたくないのです。」
「それでも大蛇が強ければ――」
「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」
櫛名田姫《くしなだひめ》はまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。
「私が大蛇の犠《いけにえ》になるのは、神々の思召《おぼしめ》しでございます。」
「そうかも知れません。しかし犠《いけにえ》になると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇の犠《いけにえ》にするより、反《かえ》って私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」
彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、厳《おごそか》な権威の閃《ひらめ》きが彼の醜《みにく》い眉目の間に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ぼうはく》したように思われた。
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