「けれども巫女《みこ》が申しますには――」
 櫛名田姫の声はほとんど聞えなかった。
「巫女は神々の言葉を伝えるものです。神々の謎を解くものではありません。」
 この時突然二頭の鹿が、もう暗くなった向うの松の下から、わずかに薄白《うすじら》んだ川の中へ、水煙《みずけむり》を立てて跳《おど》りこんだ。そうして角《つの》を並べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。
「あの鹿の慌《あわ》てようは――もしや来るのではございますまいか。あれが、――あの恐ろしい神が、――」
 櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰へ縋《すが》りついた。
「そうです。とうとう来たようです。神々の謎の解ける時が。」
 彼は対岸に眼を配《くば》りながら、おもむろに高麗剣《こまつるぎ》の柄《つか》へ手をかけた。するとその言葉がまだ終らない内に、驟雨《しゅうう》の襲いかかるような音が、対岸の松林を震わせながら、その上に疎《まばら》な星を撒《ま》いた、山々の空へ上《のぼ》り出した。
[#地から1字上げ](大正九年五月)



底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
  
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