》く盛られたまま、彼の前に並べられた。若い女は瓶《ほたり》を執って、彼に酒を勧《すす》むべく、炉のほとりへ坐りに来た。目近《まじか》に坐っているのを見れば、色の白い、髪の豊な、愛嬌《あいきょう》のある女であった。
 彼は獣《けもの》のように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らず空《から》になった。女は健啖《けんたん》な彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に刀子《とうす》を加えようとした、以前の慓悍《ひょうかん》な気色《けしき》などは、どこを探しても見えなかった。
「さあ、これで腹は出来た。今度は着る物を一枚くれい。」
 彼は食事をすませると、こう云って、大きな欠伸《あくび》をした。女は洞穴《ほらあな》の奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見た事のない、精巧な織模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁の上の武器の中から、頭椎《かぶつち》の剣《つるぎ》を一振《ひとふり》とって、左の腰に結び下げた。それからまた炉の火の前へ行って、さっきのようにあぐらを掻《か》いた。
「何かまだ御用がございますか。」
 しばらくの後、女はまた側へ来て、ためらうような尋ね方をした。
「おれは主人の帰るのを待っているのだ。」
「待って、――どうなさるのでございますか。」
「太刀打《たちうち》をしようと思うのだ。おれは女を劫《おびやか》して、盗人を働いたなどとは云われたくない。」
 女は顔にかかる髪を掻き上げながら、鮮《あざやか》な微笑を浮べて見せた。「それでは御待ちになるがものはございません。私がこの洞穴の主人なのでございますから。」
 素戔嗚は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。
「男は一人もいないのか。」
「一人も居りません。」
「この近くの洞穴には?」
「皆|私《わたくし》の妹たちが、二三人ずつ住んで居ります。」
 彼は顔をしかめたまま二三度頭を強く振った。火の光、床《ゆか》の毛皮、それから壁上の太刀《たち》や剣《つるぎ》、――すべてが彼には、怪しげな幻のような心もちがした。殊にこの若い女は、きらびやかな頸珠《くびだま》や剣を飾っているだけに、余計人間離れのした、山媛《やまひめ》のような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよった後《のち》この危害の惧《おそれ》のない、暖な洞穴に坐っているのは、とにかく快いには違いなかった。
「妹たちは大勢いるのか。」
「十六人居ります。――ただ今姥が知らせに参りましたから、その内に皆御眼にかかりに、出て参るでございましょう。」
 成程《なるほど》そう云われて見れば、あの猿のような老婆の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
        二十六
 素戔嗚《すさのお》は膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、
「あの――御名前は何とおっしゃいますか。私は大気都姫《おおけつひめ》と申しますが。」と云った。
「おれは素戔嗚だ。」
 彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの無様《ぶざま》な若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。
「では今まではあの山の向うの、高天原《たかまがはら》の国にいらしったのでございますか。」
 彼は黙って頷《うなず》いた。
「高天原の国は、好《よ》い所だと申すではございませんか。」
 この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭《しんとう》の怒火《どか》が、また彼の眼の中に燃えあがった。
「高天原の国か。高天原の国は、鼠が猪《いのしし》よりも強い所だ。」
 大気都姫は微笑した。その拍子《ひょうし》に美しい歯が、鮮《あざやか》に火の光に映って見えた。
「ここは何と云う所だ?」
 彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の逞《たくま》しい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立《いらだ》たしい眉《まゆ》を動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、滴《したた》るような媚《こび》を眼に浮べて、
「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。
 その時|俄《にわか》に人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気色《けしき》もなく、ぞろぞろ洞穴《ほらあな》の中へはいって来た。彼等は皆頬に紅《くれない》をさして、高々と黒髪を束《つか》ねていた。それが順々に大気都姫《おおけつひめ》と、親しそうな挨拶《あいさつ》を交換すると、呆気《あっけ》にとられた彼のまわりへ、馴《な》れ馴れしく手《て》ん手《で》に席を占めた。頸珠《くびだま》の色、耳環《みみわ》の光、それから着物の絹ずれの音、――洞 
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