素戔嗚尊
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)高天原《たかまがはら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)たった一人|陽炎《かげろう》の中を

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(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]
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        一

 高天原《たかまがはら》の国も春になった。
 今は四方《よも》の山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草原《くさはら》は一面に仄《ほの》かな緑をなすって、その裾《すそ》を流れて行く天《あめ》の安河《やすかわ》の水の光も、いつか何となく人懐《ひとなつか》しい暖みを湛《たた》えているようであった。ましてその河下《かわしも》にある部落には、もう燕《つばくら》も帰って来れば、女たちが瓶《かめ》を頭に載せて、水を汲みに行く噴《ふ》き井《い》の椿《つばき》も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。――
 そう云う長閑《のどか》な春の日の午後、天《あめ》の安河《やすかわ》の河原には大勢の若者が集まって、余念もなく力競《ちからくら》べに耽《ふけ》っていた。
 始《はじめ》、彼等は手《て》ん手《で》に弓矢を執《と》って、頭上の大空へ矢を飛ばせた。彼等の弓の林の中からは、勇ましい弦《ゆんづる》の鳴る音が風のように起ったり止んだりした。そうしてその音の起る度に、矢は無数の蝗《いなご》のごとく、日の光に羽根を光らせながら、折から空に懸《かか》っている霞の中へ飛んで行った。が、その中でも白い隼《はやぶさ》の羽根の矢ばかりは、必ずほかの矢よりも高く――ほとんど影も見えなくなるほど高く揚った。それは黒と白と市松模様《いちまつもよう》の倭衣《しずり》を着た、容貌《ようぼう》の醜い一人の若者が、太い白檀木《しらまゆみ》の弓を握って、時々切って放す利《とが》り矢であった。
 その白羽《しらは》の矢が舞い上る度に、ほかの若者たちは空を仰いで、口々に彼の技倆《ぎりょう》を褒《ほ》めそやした。が、その矢がいつも彼等のより高く揚る事を知ると、彼等は次第に彼の征矢《そや》に冷淡な態度を装《よそお》い出した。のみならず彼等の中《うち》の何者かが、彼には到底及ばなくとも、かなり高い所まで矢を飛ばすと、反《かえ》ってその方へ賛辞を与えたりした。
 容貌の醜い若者は、それでも快活に矢を飛ばせ続けた。するとほかの若者たちは、誰からともなく弓を引かなくなった。だから今まで紛々《ふんぷん》と乱れ飛んでいた矢の雨も、見る見る数が少くなって来た。そうしてとうとうしまいには、彼の射る白羽の矢ばかりが、まるで昼見える流星《りゅうせい》のように、たった一筋空へ上るようになった。
 その内に彼も弓を止めて、得意らしい色を浮べながら、仲間の若者たちの方を振返った。が、彼の近所にはその満足を共にすべく、一人の若者も見当らなかった。彼等はもうその時には、みんな河原の水際《みぎわ》により集まって、美しい天の安河の流れを飛び越えるのに熱中していた。
 彼等は互に競《きそ》い合って、同じ河の流れにしても、幅の広い所を飛び越えようとした。時によると不運な若者は、焼太刀《やきだち》のように日を照り返した河の中へ転《ころ》げ落ちて、眩《まば》ゆい水煙《みずけむり》を揚げる事もあった。が、大抵《たいてい》は向うの汀《なぎさ》へ、ちょうど谷を渡る鹿のように、ひらりひらりと飛び移って行った。そうして今まで立っていたこちらの汀を振返っては声々に笑ったり話したりしていた。
 容貌の醜い若者はこの新しい遊戯を見ると、すぐに弓矢を砂の上に捨てて、身軽く河の流れを躍り越えた。そこは彼等が飛んだ中でも、最も幅の広い所であった。けれどもほかの若者たちはさらに彼には頓着しなかった。彼等には彼の後で飛んだ――彼よりも幅の狭い所を彼よりも楽に飛び越えた、背《せい》の高い美貌《びぼう》の若者の方が、遥《はるか》に人気があるらしかった。その若者は彼と同じ市松の倭衣《しずり》を着ていたが、頸《くび》に懸けた勾玉《まがたま》や腕に嵌《は》めた釧《くしろ》などは、誰よりも精巧な物であった。彼は腕を組んだまま、ちょいと羨しそうな眼を挙げて、その若者を眺めたが、やがて彼等の群を離れて、たった一人|陽炎《かげろう》の中を河下《かわしも》の方へ歩き出した。

        二

 河下の方へ歩き出した彼は、やがて誰一人飛んだ事のない、三丈ほども幅のある流れの汀《なぎさ》へ足を止めた。そこは一旦|湍《たぎ》った水が今までの勢いを失いながら、両岸の石と砂との間に青々と澱《よど》んでいる所であった。彼はしばらくその水面
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