穴の内はそう云う物が、榾明《ほたあか》りの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。
 十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な酒盛《さかもり》を開き始めた。彼は始は唖《おし》のように、ただ勧《すす》められる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、酔《よい》がまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴を弾《ひ》いた。またある者は、盃を控えて、艶《なまめ》かしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。
 その内に夜になった。老婆は炉《ろ》に焚き木を加えると共に、幾つも油火《あぶらび》の燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のように酔《よ》い痴《し》れながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に嬌嗔《きょうしん》を帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒に中《ひた》った彼を壟断《ろうだん》していた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原《たかまがはら》の国も忘れて、洞穴を罩《こ》めた脂粉《しふん》の気の中《なか》に、全く沈湎《ちんめん》しているようであった。ただその大騒ぎの最中《もなか》にも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅に蹲《うずくま》って、十六人の女たちの、人目を憚《はばか》らない酔態に皮肉な流し目を送っていた。

        二十七

 夜《よ》は次第に更《ふ》けて行った。空《から》になった盤《さら》や瓶《ほたり》は、時々けたたましい音を立てて、床《ゆか》の上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から滴《したた》る酒に、いつかぐっしょり濡《ぬ》らされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体《しょうたい》もないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息《といき》の音ばかりであった。
 やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には炉《ろ》に消えかかった、煤臭《すすくさ》い榾《ほた》の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に虐《さいな》まれている、小山のような彼の姿を朦朧《もうろう》といつまでも照していた。……
 翌日彼は眼をさますと、洞穴《ほらあな》の奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳《すがだたみ》を延べる代りに、堆《うずたか》く桃《もも》の花が敷いてあった。昨日《きのう》から洞中に溢《あふ》れていた、あのうす甘い、不思議な※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》は、この桃の花の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]に違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜《ゆうべ》の記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。
「畜生《ちくしょう》。」
 素戔嗚《すさのお》はこう呻《うめ》きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、煽《あお》ったように空へ舞い上った。
 洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫《おおけつひめ》はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く靴《くつ》を穿《は》いて、頭椎《かぶつち》の太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。
 微風は彼の頭から、すぐさま宿酔《しゅくすい》を吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに戦《そよ》いでいる、さわやかな森林の梢《こずえ》を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った靄《もや》の上に、※[#「山/贊」、第4水準2−8−72]※[#「山+元」、第3水準1−47−69]《さんがん》たる肌《はだ》を曝《さら》していた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜《ゆうべ》の狂態を嘲笑《あざわら》っているように見えるのであった。
 この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴《ほらあな》の空気が、嘔吐《おうと》を催すほど不快になった。今は炉《ろ》の火も、瓶《ほたり》の酒も、乃至《ないし》寝床の桃の花も、ことごとく忌《いま》わしい腐敗の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》に充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢《しえ》を隠すために、巧な紅粉《こうふん》を装っている、屍骨《しこつ》のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然《しょうぜん》と頭を低《た》れながら、洞穴の前に懸っている藤蔓《ふじづる》の橋を渡ろうとした。
 
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