訪問した。T先生は玄関へ顔を出すと、「わたしがTです。ではさやうなら」と言つたぎり、さつさと奥へ引きこまうとした。武さんは慌《あわ》ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。
「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行つて見ては?」
武さんはやつと三度目にU先生に辿《たど》り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督《キリスト》教的思想家だつた。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはひつて行つた。同時に又次第に現世《げんせ》には珍らしい生活へはひつて行つた。
それは唯はた目には石鹸《せつけん》や歯磨《はみが》きを売る行商《ぎやうしやう》だつた。しかし武さんは飯《めし》さへ食へれば、滅多《めつた》に荷を背負《せお》つて出かけたことはなかつた。その代りにトルストイを読んだり、蕪村《ぶそん》句集講義を読んだり、就中《なかんづく》聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。兎《と》に角《かく》武さんは昔の坊さんの法華経《ほけきやう》などを筆写したやうに勇猛に聖書を筆写したのである。
或夏の近づいた月夜、武《たけ》さんは荷物
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