の学校を通り抜けることは僅かに貧困を脱出するたつた一つの救命袋だつた。尤も信輔は中学時代にはかう言ふ事実を認めなかつた。少くともはつきりとは認めなかつた。しかし中学を卒業する頃から、貧困の脅威は曇天のやうに信輔の心を圧しはじめた。彼は大学や高等学校にゐる時、何度も廃学を計画した。けれどもこの貧困の脅威はその度に薄暗い将来を示し、無造作に実行を不可能にした。彼は勿論学校を憎んだ。殊に拘束の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭の音は刻薄な響を伝へたであらう。如何に又グラウンドのポプラアは憂鬱な色に茂つてゐたであらう。信輔は其処に西洋歴史のデエトを、実験もせぬ化学の方程式を、欧米の一都市の住民の数を、――あらゆる無用の小智識を学んだ。それは多少の努力さへすれば、必しも苦しい仕事ではなかつた。が、無用の小智識と言ふ事実をも忘れるのは困難だつた。ドストエフスキイは「死人の家」の中にたとへば第一のバケツの水をまづ第二のバケツへ移し、更に又第二のバケツの水を第一のバケツへ移すと言ふやうに、無用の労役を強ひられた囚徒の自殺することを語つてゐる。信輔は鼠色の校舎の中に、――丈の高いポプラアの戦《そよ》ぎの
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