を出したのは六十前後の老人だつた。信輔はこの老人の顔に、――アルコオル中毒の老人の顔に退職官吏を直覚した。
「僕の父。」
彼の友だちは簡単にかうその老人を紹介した。老人は寧ろ傲然と信輔の挨拶を聞き流した。それから奥へはひる前に、「どうぞ御ゆつくり。あすこに椅子もありますから」と言つた。成程二脚の肘かけ椅子は黒ずんだ椽側に並んでゐた。が、それ等は腰の高い、赤いクツシヨンの色の褪めた半世紀前の古椅子だつた。信輔はこの二脚の椅子に全中流下層階級を感じた。同時に又彼の友だちも彼のやうに父を恥ぢてゐるのを感じた。かう言ふ小事件も彼の記憶に苦しいほどはつきりと残つてゐる。思想は今後も彼の心に雑多の陰影を与へるかも知れない。しかし彼は何よりも先に退職官吏の息子だつた。下層階級の貧困よりもより虚偽に甘んじなければならぬ中流下層階級の貧困の生んだ人間だつた。
四 学校
学校も亦信輔には薄暗い記憶ばかり残してゐる。彼は大学に在学中、ノオトもとらずに出席した二三の講義を除きさへすれば、どう言ふ学校の授業にも興味を感じたことは一度もなかつた。が、中学から高等学校、高等学校から大学と幾つか
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