り。予は憎悪を憎悪せんとす。貧困に対する、虚偽に対する、あらゆる憎悪を憎悪せんとす。……」
これは信輔の衷情だつた。彼はいつか貧困に対する憎悪そのものをも憎んでゐた。かう言ふ二重に輪を描いた憎悪は二十前の彼を苦しめつづけた。尤も多少の幸福は彼にも全然ない訣ではなかつた。彼は試験の度ごとに三番か四番の成績を占めた。又或下級の美少年は求めずとも彼に愛を示した。しかしそれ等も信輔には曇天を洩れる日の光だつた。憎悪はどう言ふ感情よりも彼の心を圧してゐた。のみならずいつか彼の心へ消し難い痕跡を残してゐた。彼は貧困を脱した後も、貧困を憎まずにはゐられなかつた。同時に又貧困と同じやうに豪奢をも憎まずにはゐられなかつた。豪奢をも、――この豪奢に対する憎悪は中流下層階級の貧困の与へる烙印だつた。或は中流下層階級の貧困だけ[#「だけ」に傍点]の与へる烙印だつた。彼は今日も彼自身の中にこの憎悪を感じてゐる。この貧困と闘はなければならぬ Petty Bourgeois の道徳的恐怖を。……
丁度大学を卒業した秋、信輔は法科に在学中の或友だちを訪問した。彼等は壁も唐紙も古びた八畳の座敷に話してゐた。其後へ顔
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