の風行はれしは、彼の本多佐渡守が秀忠将軍の乳母なる大婆に一言咎められて、返す詞も無かりし一場の話に徴して知るべし。駿府にて女房等が大根の漬物の塩辛きに困じて、家康に歎きけるを、厨《くりや》の事をば沙汰しける松下常慶《まつしたじやうけい》を召して今少し塩加減よくすべしと諭ししかば、此の老人主が側に進み寄りて、何事をかささやきしに、主は言葉なくして唯笑ひけるを、彼れ其の儘退きしと云ふ。
「老人ささやきしは、『今の如く塩辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用夥しきものを女房達の好みの如く、塩加減いたし候はば、何ほどの費用に及ぶべきも計りがたし。女房達の申す詞など聞し召さぬ様にて、わたらせ給ふこそ然るべけれ』とは曰ひしなりけり。常慶も塩辛き男なれば、家康が笑ひし腹加減[#「腹加減」に傍点]も大に塩辛かりけり。天下を取りし後だに此くの如し。三河の事想ふべし。(中略)
「『近年日課を六万遍唱へ候事、老人いらぬ過役《くわえき》にて候。遍数減らし候様に皆々申聞候。成程遍数をへらし候へば、楽に成り候得共、幼少より戦国に生れ、多くの人を殺し候得ば、せめて罪ほろぼしにもなり候半《さふらはん》。且年若より一日も隙《ひ
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