書いて置けば、大正十一年の秋のことである。爾来《じらい》僕は何かの機会にこの忘れられた歴史家を紹介したいと思ひながら、とうとう今日に及んでしまつた。紹介したいと云ふ以上、湖州大久保余所五郎の才人だつたことは云ふを待たない。いや、湖州は明治の生んだ、必しも多からざる才人中、最も特色のある一人である。諸君は勿論かう云ふ讃辞に懐疑的な微笑を浮べるであらう。諸君の確信する所によれば、古今の才人は一人残らず諸君の愛顧を辱《かたじけな》うしてゐる。況《いはん》や最も特色のある才人などと云ふものの等閑に附せられてゐる筈はない。それは諸君の云ふ通りである。第一古今の才人は何も才人だつた故に諸君の御意にかなつたのではない。諸君の御意にかなつた故に才人になることも出来たのである。つまり才人を才人にするのは才人自身といふよりも諸君であると云はなければならぬ。諸君はまことにその点だけは神よりも全智全能である。如何なる才人も諸君の為に門前払ひを食はされたが最後、露命さへ繋げぬのに違ひない。この故に尾形乾山は蕭条《せうでう》たる陋巷《ろうかう》に窮死した。この故に亦大久保湖州も明治三十四年出版、正価一円二十銭の著書を、――しかも彼の唯一の著書を「引ナシ五十銭」に売られてゐるのである。
僕は湖州を才人だと云つた。が、諸君の微笑の前には少時《しばらく》この言葉を見合せても好い。その代りに僕は諸君の愛顧を辱うする光栄を得なかつた湖州の薄命を弔はなければならぬ。湖州もその後聞いた所によれば、少くとも識者の間には全然忘れられた次第ではない。しかし湖州の母校たる当年の早稲田専門学校――現在の早稲田大学は片上伸の如き、本間久雄の如き、或は又宮島新三郎の如き、有為の批評家を世に出してゐる。けれども大久保湖州の名は未だ彼等の椽大《てんだい》の筆に一度たりと雖《いへど》も上つたことはない。彼等は皆彼等の職に甚だ忠なる批評家である。或は聊《いささ》か彼等の職に忠過ぎる憾《うら》みさへあるかも知れない。しかも湖州を逸してゐるのは怠慢の罪と云ふよりも、やはり我々と同じやうに無知の罪と云はなければならぬ。彼等は万里の波濤を隔てた仏蘭西《フランス》、英吉利《イギリス》、露西亜《ロシア》等の群小作家の名をも心得てゐる。が、彼等の先輩たる大才の名だけは心得てゐない。かう云ふ湖州を薄命と呼ぶのは必ずしも誇張とは咎《とが》め難い
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