大久保湖州
芥川龍之介

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)直弼《なほすけ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)湖州|大久保余所五郎《おほくぼよそごらう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第3水準2−88−74]

 [#…]:返り点
 (例)不[#レ]可[#レ]免

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いや/\
−−

 或秋の夜、僕は本郷の大学前の或古本屋を覗いて見た。すると店先の陳列台に古い菊判の本が一冊、「大久保湖州著、家康と直弼《なほすけ》、引ナシ金五十銭」と云ふ貼り札の帯をかけたまま、雑書の上に抛り出してあつた。僕はこの本の挨を払ひ、ちよつと中をひろげて見た。中は本の名の示す通り、徳川家康と井伊直弼とに関する史論を集めたものらしかつた。が偶然開いた箇所は附録に添へてある雑文だつた。「人の一生」――僕はこの雑文の一つにかう云ふ名のあるのを発見した。
      人の一生
[#ここから2段組]
  徳川家康
 急ぐべからず。
 心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
 怒《いかり》は敵と思へ。
 勝つ事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身に至る。
 及ばざるは過ぎたるより勝れり。
[#改段]
  大久保余所五郎
 後《おく》るべからず。
 心に望失なはば得意なりし時を思ひ出すべし。
 卑屈は敵と思へ。
 負くる事に安んじて勝つ事を知らざれば損其身に至る。
 成すは成さざるより勝れり。
[#ここで段組終わり]
 僕は思はず微笑した。この湖州|大久保余所五郎《おほくぼよそごらう》なるものは征夷大将軍徳川家康と処世訓の長短を比べてゐる。しかも彼の処世訓は不思議にも坊間に行はれる教科書の臭気を帯びてゐない。何処か彼自身の面接した人生の息吹きを漂はせてゐる。「心に望失はば得意なりし時を思ひ出すべし。」――情熱に富んだ才人の面かげはかう云ふ一行にも見えるやうである。僕は漫然とその次の「鎌倉漫筆」へ目を移した。漫然と――しかし僕の好奇心は忽《たちま》ち近来にない刺戟を感じた。まづ僕を喜ばせたものは歴史家を評した数行である。
「若《も》し徂徠《そらい》にして
次へ
全13ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング