やうせい》に哀悼《あいたう》の念を抱《いだ》いてゐる。ロテイの描《か》いた日本はヘルンの描いた日本よりも、真《しん》を伝へない画図《ぐわと》かも知れない。しかし兎《と》に角《かく》好画図たることは異論を許さない事実である。我我の姉妹たるお菊さんだの或は又お梅さんだのは、ロテイの小説を待つた後《のち》、巴里《パリ》の敷石の上をも歩むやうになつた。我我は其処《そこ》にロテイに対する日本の感謝を捧げたいと思ふ。なほロテイの生涯は大体左に示す通りである。
千八百五十年一月十四日、ロテイはロシユフオオルで生れ、十七歳の時、海軍に入り、千九百六年大佐になつた。大佐になつたのは数へ年で五十七の時である。
最初の作は千八百七十九年、即三十歳の時|公《おほやけ》にした 〔Aziyade'〕 である。後ち一年、千八百八十年に Rarahu を出して一躍流行児になつた。これは二年の後《のち》「ロテイの結婚」と改題再刊されたものである。
かの「お菊さん」は千八百八十七年に、「日本の秋」は八十九年に公《おほやけ》にされた。
アカデミイの会員に選まれたのは九十一年、数へて四十二歳の時である。
彼は、国際
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