tするといふことがわからなかつたのである。が、僕は現代に生れた難有《ありがた》さに、それをちやんと心得てゐるから、煮《に》たものばかり食つたり、塩酸レモナアデを服《の》んだり、悠悠と予防を講じてゐる。この間、臆病すぎると言つて笑はれたが、臆病は文明人のみの持つてゐる美徳である。臆病でない人間が偉ければ、ホツテントツトの王様に三拝《さんぱい》九拝《きうはい》するがいい。

     十三 長崎

 菱形《ひしがた》の凧《たこ》。サント・モンタニの空に揚《あが》つた凧《たこ》。うらうらと幾つも漂《ただよ》つた凧。
 路ばたに商《あきな》ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照《ほて》るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕《つばめ》。
 丸山《まるやま》の廓《くるわ》の見返《みかへ》り柳。
 運河には石の眼鏡橋《めがねばし》。橋には往来《わうらい》の麦稈帽子《むぎわらばうし》。――忽ち泳《およ》いで来る家鴨《あひる》の一むれ。白白《しろじろ》と日に照つた家鴨の一むれ。
 南京寺《なんきんでら》の石段の蜥蜴《とかげ》。
 中華民国の旗。煙を揚げる英吉利《イギリス》の船。「港をよろふ山の若葉に光さし……」顱頂《
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