氈sじふべんじふぎでふ》あるが故に、大雅《たいが》と蕪村《ぶそん》とを並称《へいしやう》するは所謂文人の為す所なり。予はたとひ宮《きゆう》せらるると雖《いへど》も、この種の狂人と伍することを願はず。
 ひとり是のみに止《とどま》らず、予は文人趣味を軽蔑するものなり。殊に化政度《くわせいど》に風行《ふうかう》せる文人趣味を軽蔑するものなり。文人趣味は道楽のみ。道楽に終始すと云はば則ち已《や》まん。然れどももし道楽以上の貼札《はりふだ》を貼らんとするものあらば、山陽《さんやう》の画《ゑ》を観せしむるに若《し》かず。日本外史《にほんぐわいし》は兎《と》も角《かく》も一部の歴史小説なり。画に至つては呉《ご》か越《ゑつ》か、畢《つひ》につくね芋《いも》の山水のみ。更に又|竹田《ちくでん》の百活矣《ひやくくわつい》は如何《いかん》。これをしも芸術と云ふ可《べ》くんば、安来節《やすぎぶし》も芸術たらざらんや。予は勿論彼等の道楽を排斥せんとするものにあらず。予をして当時に生まれしめば、戯れに河童晩帰《かつぱばんき》の図を作り、山紫水明楼上の一粲《いつさん》を博せしやも亦《また》知る可からず。且又彼等も
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