lはそれをふところにしたまま、久米の下宿へ出かけて行つた。
「いくら来た? 一円か? 一円五十銭か?」
 久米は僕の顔を見ると、彼自身のことのやうに熱心にたづねた。僕は何《なん》ともこたへずに、振替《ふりかへ》の紙を出して見せた。振替の紙には残酷《ざんこく》にも三円六十銭と書いてあつた。
「三十銭か。三十銭はひどいな。」
 久米もさすがになさけない顔をした。僕はなほ更|仏頂《ぶつちやう》づらをしてゐた。が、僕等はしばらくすると、同時ににやにや笑ひ出した。久米はいはゆる微苦笑《びくせう》をうかべ、僕は手がるに苦笑したのである。
「三十銭は知己料《ちきれう》をさしひいたんだらう。一円五十銭マイナス三十銭――一円二十銭の知己料は高いな。」
 久米はこんなことをいひながら、振替の紙を僕にかへした。しかしもうこの間のやうに、おごれとか何《なん》とかはいはなかつた。

     九 妄問妄答

 客 菊池寛《きくちくわん》氏の説によると、我我は今度の大《だい》地震のやうに命も危いと云ふ場合は芸術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物種《ものだね》と尻端折《しりはしよ》りをするのに忙《いそが》し
前へ 次へ
全32ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング