精神を重んずる所に逆説的にも潜んでゐると云ふ事実だけを指摘したいのである。
九 「若し王者たりせば」
「我|若《も》し王者たりせば」と云ふ映画によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛国者に変じてゐる。それから又シヤロツト姫に対する純一無雑の恋人に変じてゐる。最後に市民の人気を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歴史上の人物はこの映画の中のヴイヨンのやうに何度も転身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は実にアメリカの生んだ映画だつた。
僕はこの映画を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜《せいさう》を数へ、「蓋棺《がいくわん》の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獣化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香《かう》を焚かれるのは唯「幸福なる少数」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には[#「一面には」に
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