の中には大きな囲爐裡が、寂しい灰の色を拡げてゐた。案内者はその天井に懸けてあつた、長い釣竿を取り下してから、私一人を後に残して、夕飯の肴に供すべく、梓川の山女《やまめ》を釣りに行つた。
 私は蓙や雑嚢を捨てて暫く小屋の前をぶらついてゐた。すると熊笹の中から、大きな黒斑らの牛が一匹、のそのそ側へやつて来た。私は稍不安になつて小屋の戸口へ退却した。牛は沾《うる》[#「沾」は底本では「沽」]んだ眼を挙げて、じつと私の顔を眺めた。それから首を横に振つて、もう一度熊笹の中へ引き返した。私はその牛の姿に愛と嫌悪とを同時に感じながら、ぼんやり巻煙草に火をつけた……
 曇天の夕焼が消えかかつた時、私たちは囲爐裡の火を囲んで、竹串に炙《あぶ》つた山女《やまめ》を肴に、鍋で炊いた飯を貪り食つた。それから毛布に寒気を凌いで、白樺の皮を巻いて造つた、原始的な燈火をともしながら、夜が戸の外に下つた後も、いろいろ山の事を話し合つた。
 白樺の火と榾《ほた》の火と、――この明暗二種の火の光は、既に燈火の文明の消長を語るものであつた。私は小屋の板壁に、濃淡二つの私の影が動いてゐるのを眺めながら、山の話の途切れた時には
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