。……
三
その日の午後、私たちは水の冷たい梓川《あずさがは》の流を徒渉した。
川を埋め残した森林の上には、飛騨信濃境の山々が、――殊にうす雲つた穂高山が、※[#「山+賛」、145−上−13]※[#「山+元」、第3水準1−47−69]《さんぐわん》と私たちを見下してゐた。私は水を渡りながら、ふと東京の或茶屋を思ひ出した。その軒に懸つてゐる岐阜提灯も、ありありと眼に見えるやうな気がした。しかし私を繞つてゐるものは、人煙を絶つた谿谷であつた。私は妙な矛盾の感じを頭一ぱいに持ちながら、無愛想な案内者の尻について、漸く対岸を蔽つてゐる熊笹の中へ辿り着いた。
対岸には大きな山毛欅《ぶな》や樅《もみ》が、うす暗く森々《しんしん》と聳えてゐた。稀に熊笹が疎《まばら》になると、雁皮《がんぴ》らしい花が赤く咲いた、湿気の多い草の間に、放牧の牛馬の足跡が見えた。
程なく一軒の板葺の小屋が、熊笹の中から現れて来た。これが小島《こじま》烏水《うすい》氏以来、屡槍ヶ嶽の登山者が一宿する、名高い嘉門治《かもんじ》の小屋であつた。
案内者は小屋の戸を開けると、背負つてゐた荷物を其処へ下した。小屋
前へ
次へ
全11ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング