かなさを漂《ただよ》わせている。これはあるいは象徴かも知れない。いつか情熱を失った彼の恋愛の象徴かも知れない。彼は三重子に忠実だった。が、三重子は半年《はんとし》の間に少しも見知らぬ不良少女になった。彼の熱情を失ったのは全然三重子の責任である。少くとも幻滅《げんめつ》の結果である。決して倦怠《けんたい》の結果などではない。……
中村は二時半になるが早いか、爬虫類の標本室を出ようとした。しかし戸口へ来ないうちにくるりと靴《くつ》の踵《かかと》を返した。三重子はあるいはひと足違いにこの都屋へはいって来るかも知れない。それでは三重子に気《き》の毒《どく》である。気の毒?――いや気の毒ではない。彼は三重子に同情するよりも彼自身の義務感に悩まされている。この義務感を安んずるためにはもう十分ばかり待たなければならぬ。なに、三重子は必ず来ない。待っても待たなくてもきょうの午後は愉快に独り暮らせるはずである。……
爬虫類の標本室は今も不相変《あいかわらず》ひっそりしている。看守さえ未《いま》だにまわって来ない。その中にただ薄《うす》ら寒い防虫剤の臭《にお》いばかり漂っている。中村はだんだん彼自身に
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