会った時にもオペラの唄ばかり歌っていた。殊に彼を驚かせたのは一月《ひとつき》ほど前《まえ》に会った三重子である。三重子はさんざんにふざけた揚句《あげく》、フット・ボオルと称しながら、枕を天井《てんじょう》へ蹴上《けあ》げたりした。……
 腕時計は二時十五分である。中村はため息を洩《も》らしながら、爬虫類《はちゅうるい》の標本室《ひょうほんしつ》へ引返した。が、三重子はどこにも見えない。彼は何か気軽になり、目の前の大蜥蜴《おおとかげ》に「失敬」をした。大蜥蜴は明治何年か以来、永久に小蛇《こへび》を啣《くわ》えている。永久に――しかし彼は永久にではない。腕時計の二時半になったが最後、さっさと博物館を出るつもりである。桜はまださいていない。が、両大師前《りょうだいしまえ》にある木などは曇天を透《す》かせた枝々に赤い蕾《つぼみ》を綴《つづ》っている。こういう公園を散歩するのは三重子とどこかへ出かけるよりも数等《すうとう》幸福といわなければならぬ。……
 二時二十分! もう十分待ちさえすれば好《い》い。彼は帰りたさをこらえたまま、標本室の中を歩きまわった。熱帯の森林を失った蜥蜴や蛇の標本は妙には
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