云う文字がはいった後《のち》も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海《くうかい》、道風《どうふう》、佐理《さり》、行成《こうぜい》――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟《ぼくせき》です。しかし彼等の筆先《ふでさき》からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之《おうぎし》でもなければ※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82] 遂良《ちょすいりょう》でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹《いぶ》きは潮風《しおかぜ》のように、老儒《ろうじゅ》の道さえも和《やわら》げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆|孟子《もうし》の著書は、我々の怒に触《ふ》れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆《くつがえ》ると信じています。科戸《しなと》の神
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