B
「カイゼルのものはカイゼルに返せ。」
 それはもう情熱に燃えた青年クリストの言葉ではない。彼に復讐し出した人生に対する(彼は勿論人生よりも天国を重んじた詩人だつた。)老成人クリストの言葉である。そこに潜んでゐるものは必しも彼の世間智ばかりではない。彼はモオゼの昔以来、少しも変らない人間愚に愛想を尽かしてゐたことであらう。が、彼の苛立《いらだ》たしさは彼にエホバの「殿《みや》に入りてその中にをる売買《うりかひ》する者を殿《みや》より逐出《おひだ》し、兌銀者《りやうがへするもの》の案《だい》、鴿《はと》を売者《うるもの》の椅子《こしかけ》」を倒させてゐる。
「この殿《みや》も今に壊れてしまふぞ。」
 或女人はかう云ふ彼の為に彼の額へ香油を注いだりした。クリストは彼の弟子たちにこの女人を咎《とが》めないことを命じた。それから――十字架と向かひ合つたクリストの気もちは彼を理解しない彼等に対する、優しい言葉の中に忍びこんでゐる。彼は香油を匂はせたまま、(それは土埃りにまみれ勝ちな彼には珍らしい出来事の一つに違ひなかつた。)静かに彼等に話しかけた。
「この女人はわたしを葬る為にわたしに香油を注
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