」と同じ必要から起つてゐる。と云ふ意味は、今僕が或テエマを捉《とら》へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日《こんにち》この日本に起つた事としては書きこなし悪《にく》い、もし強《しひ》て書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果|折角《せつかく》のテエマまでも犬死をさせる事になってしまふ。所でこの困難を除く手段には「今日《こんにち》この日本に起つた事としては書きこなし悪《にく》い」と云ふ語《ことば》が示してゐるやうに、昔か(未来は稀《まれ》であろう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地から起つた事とするより外《ほか》はない。僕の昔から材料を採つた小説は大抵《たいてい》この必要に迫られて、不自然の障碍《しやうがい》を避ける為に舞台を昔に求めたのである。
 しかしお伽噺《とぎばなし》と違つて小説は小説と云ふものの要約上、どうも「昔々」だけ書いてすましてゐると云ふ訳には行《ゆ》かない。そこで略《ほぼ》時代の制限が出来て来る。従つてその時代の社会状態と云ふやうなものも、自然の感じを満足させる程度に於《おい》て幾分とり入れられる事になつて来る。だから所謂《いはゆる》歴史小説とはどんな意味に於ても「昔」の再現を目的《エンド》にしてゐないと云ふ点で区別を立てる事が出来るかも知れない。――まあざつとこんなものである。
 序《ついで》につけ加へて置くが、さう云ふ次第だから僕は昔の事を小説に書いても、その昔なるものに大して憧憬《しようけい》は持つてゐない。僕は平安朝《へいあんてう》に生れるよりも、江戸時代に生れるよりも、遙《はるか》に今日《こんにち》のこの日本に生れた事を難有《ありがた》く思つてゐる。
 それからもう一つつけ加へて置くが、或テエマの表現に異常なる事件が必要になる事があると云つたが、それには其外《そのほか》にすべて異常なる物に対して僕(我我人間と云ひたいが)の持つてゐる興味も働いてゐるだらうと思ふ。それと同じやうに或異常なる事件を不自然の感じを与へずに書きこなす必要上、昔を選ぶと云ふ事にも、さう云ふ必要以外に昔|其《その》ものの美しさが可也《かなり》影響を与へてゐるのにちがひない。しかし主として僕の作品の中で昔が勤《つと》めてゐ
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