る役割は、やはり「ベルトが糸を紡《つむ》いでゐた時に」である、或は「まだ動物が口を利《き》いてゐた時に」である。

     三十二 徳川末期の文芸

 徳川末期の文芸は不真面目《ふまじめ》であると言はれてゐる。成程《なるほど》不真面目ではあるかも知れない。しかしそれ等の文芸の作者は果して人生を知らなかつたかどうか、それは僕には疑問である。彼等|通人《つうじん》も肚《はら》の中では如何《いか》に人生の暗澹《あんたん》たるものかは心得てゐたのではないであらうか? しかもその事実を回避《くわいひ》する為に(たとひ無意識的ではあつたにもせよ)洒落《しや》れのめしてゐたのではないであらうか? 彼等の一人《ひとり》、――たとへば宮武外骨《みやたけぐわいこつ》氏の山東京伝《さんとうきやうでん》を読んで見るが好《よ》い。ああ云ふ生涯に住しながら、しかも人生の暗澹《あんたん》たることに気づかなかつたと云ふのは不可解である。
 これは何も黄表紙《きべうし》だの洒落本《しやれぼん》だのの作者ばかりではない。僕は曲亭馬琴《きよくていばきん》さへも彼の勧善懲悪《くわんぜんちやうあく》主義を信じてゐなかつたと思つてゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が饗庭篁村《あへばくわうそん》氏の編した馬琴日記抄|等《とう》によれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も気づかずにはゐなかつた筈であらう。森鴎外《もりおうぐわい》先生は確か馬琴日記抄の跋《ばつ》に「馬琴よ、君は幸福だつた。君はまだ先王《せんわう》の道に信頼することが出来た」とか何《なん》とか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴も亦《また》先王の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。
 若し※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》と云ふことから言へば、彼等の作品は※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》ばかりである。彼等は彼等自身と共に世間を欺《あざむ》いてゐたと言つても好《よ》い。しかし善や美に対する欣求《ごんぐ》は彼等の作品に残つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は仏蘭西《フランス》のロココ王朝と共に実生活の隅隅《くまぐま》にさへ美意識の行き渡つた時代だつた。従つて美しいと云ふことから言へば、彼等の作品に溢《あふ》れた空気は如何《いか》にも美しい(勿論多少|頽廃《たいはい》した)ものであらう。
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