つて、私の作品集を手にすべき一人《いちにん》の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧《おぼろ》げなりとも浮び上る私の蜃気楼《しんきろう》のある事を。
 私は私の愚《ぐ》を嗤笑《しせう》すべき賢達《けんたつ》の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖《いへど》も私の愚を笑ふ点にかけては敢《あへ》て人後に落ちようとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋恋たる私自身の意気地《いくぢ》なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。

     三十一 「昔」

 僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。態度とか何《なん》とか云ふと、甚《はなはだ》大袈裟《おほげさ》に聞えるが、何もそんな大したものを持ち合せてゐる次第では決してない。まあ僕の昔の事を書く時に、どんな眼で昔を見てゐるか、云ひ換《かへ》れば僕の作品の中で昔がどんな役割を勤めてゐるか、そんな事を話して見ようかと思ふ。元来|裃《かみしも》をつけての上の議論ではないのだから、どうかその心算《つもり》でお聴きを願ひたい。
 お伽噺《とぎばなし》を読むと、日本のなら「昔々」とか「今は昔」とか書いてある。西洋のなら「まだ動物が口を利《き》いてゐた時に」とか「ベルトが糸を紡《つむ》いでゐた時に」とか書いてある。あれは何故《なぜ》であらう。どうして「今」ではいけないのであらう。それは本文《ほんもん》に出て来るあらゆる事件に或可能性を与へる為の前置きにちがひない。何故かと云ふと、お伽噺《とぎばなし》の中に出て来る事件は、いづれも不思議な事ばかりである。だからお伽噺の作者にとつては、どうも舞台を今にするのは具合《ぐあひ》が悪い。絶対に今ではならんと云ふ事はないが、それよりも昔の方が便利である。「昔々」と云へば既《すで》に太古緬※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《たいこめんばく》の世だから、小指ほどの一寸法師《いつすんぼふし》が住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、格別《かくべつ》矛盾《むじゆん》の感じが起らない。そこで予《あらかじ》め前へ「昔々」と食付《くつつ》けたのである。
 所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料を採《と》るのは大半この「昔々
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