版数さへ甚だ当てにならぬものださうである。例へばゾラの晩年の小説などは二百部を一版と号してゐたらしい。しかしこれは悪習である。何も香水やオペラ・バツクのやうに輸入する必要はないに違ひない。且又メルキユルは出版した本に一一何冊目と記したこともある。メルキユルを学ぶことは困難にしろ、一版を何部と定《さだ》めた上、版数も偽《いつは》らずに広告することは当然日本の出版業組合も※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行《れいかう》して然るべき企てであらう。いや、かう云ふ見易いことは賢明なる出版業組合の諸君のとうに気づいてゐる筈である。するとそれを実行しないのは「もし佳書を得んと欲せば版数の少きを選べ」と云ふ教訓を垂れてゐるのかも知れない。

     二十六 家

 早川孝太郎《はやかはかうたらう》氏は「三州横山話《さんしうよこやまばなし》」の巻末にまじなひの歌をいくつも揚げてゐる。
 盗賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の間《ま》に何ごとあらば起せ、桁梁《けたはり》」
 火の用心の歌、――「霜柱、氷の梁《はり》に雪の桁《けた》、雨のたる木に露の葺《ふ》き草」
 いづれも「家《いへ》」に生命を感じた古《いにし》へびとの面目《めんもく》を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも後《のち》に生れるものは是等《これら》の歌を読んだにしろ、何《なん》の感銘も受けないかも知れない。或は又鉄筋コンクリイトの借家《しやくや》住まひをするやうになつても、是等の歌は幻《まぼろし》のやうに山かげに散在する茅葺《かやぶき》屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。
 なほ次手《ついで》に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男《やなぎだくにを》氏の「遠野物語《とほのものがたり》」以来、最も興味のある伝説集であらう。発行所は小石川区《こいしかはく》茗荷谷町《みやうがだにまち》五十二番地|郷土研究社《きやうどけんきうしや》、定価は僅かに七十銭である。但《ただ》し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訣《わけ》ではない。
 付記 なほ四五十年|前《ぜん》の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁《はり》も聴け、明けの六《む》つには起せ大《おほ》びき」

     二十七 続「とても」

 肯定《こうてい》
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