もこの点では、菊池氏の俊寛の蹤《あと》を追ふものである。唯菊池氏の俊寛は、寧《むし》ろ外部の生活に安住の因を見出してゐるが、僕のは必《かならず》しもそればかりではない。
しかし謡《うたひ》や浄瑠璃《じやうるり》にある通り、不毛の孤島に取り残された儘、しかもなほ悠悠たる、偉い俊寛を考へられぬではない。唯この巨鱗《きよりん》を捉《とら》へる事は、現在の僕には出来ぬのである。
附記 盛衰記に現れた俊寛は、機智に富んだ思想家であり、鶴《つる》の前《まへ》を愛する色好《いろごの》みである。僕は特にこの点では、盛衰記の記事に忠実だつた。又俊寛の歌なるものは、康頼《やすより》や成経《なりつね》より拙《つたな》いやうである。俊寛は議論には長じてゐても、詩人肌ではなかつたらしい。僕はこの点でも、盛衰記に忠実な態度を改めなかつた。又盛衰記の鬼界が島は、たとひタイテイではないにしても、満更《まんざら》岩ばかりでもなささうである。もしあの盛衰記の島の記事から、辺土《へんど》に対する都会人の恐怖や嫌悪《けんを》を除き去れば、存外《ぞんぐわい》古風土記《こふうどき》にありさうな、愛すべき島になるかも知れない。
十三 漢字と仮名と
漢字なるものの特徴はその漢字の意味以外に漢字そのものの形にも美醜を感じさせることださうである。仮名《かな》は勿論使用上、音標文字《おんぺうもじ》の一種たるに過ぎない。しかし「か」は「加」と云ふやうに、祖先はいづれも漢字である。のみならず、いつも漢字と共に使用される関係上、自然と漢字と同じやうに仮名《かな》そのものの形にも美醜の感じを含み易い。たとへば「い」は落ち着いてゐる、「り」は如何《いか》にも鋭いなどと感ぜられるやうになり易いのである。
これは一つの可能性である。しかし事実はどうであらう?
僕は実は平仮名《ひらがな》には時時《ときどき》形にこだはることがある。たとへば「て」の字は出来るだけ避けたい。殊に「何何して何何」と次に続けるのは禁物《きんもつ》である。その癖「何何してゐる。」と切れる時には苦《く》にならない。「て」の字の次は「く」の字である。これも丁度《ちやうど》折れ釘のやうに、上の文章の重量をちやんと受けとめる力に乏しい。片仮名《かたかな》は平仮名に比べると、「ク」の字も「テ」の字も落ち着いてゐる。或は片仮名は平仮名よりも進歩した音
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