俊寛が乗るは弘誓《ぐぜい》の船、浮き世の船には望みなし。」
 僕は以前|久米正雄《くめまさを》と、この俊寛《しゆんくわん》の芝居を見た。俊寛は故人|段四郎《だんしらう》、千鳥《ちどり》は歌右衛門《うたゑもん》、基康《もとやす》は羽左衛門《うざゑもん》、――他は記憶に残つてゐない。俊寛が乗るは云云《うんぬん》の文句は、当時大いに久米正雄を感心させたものである。
 近松《ちかまつ》の俊寛は源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》の俊寛よりも、遙かに偉い人になつてゐる。勿論|舟出《ふなで》を見送る時には、嘆き悲しむのに相違ない。しかしその後《ご》は近松の俊寛も、安らかに余生を送つたかも知れぬ。少くとも盛衰記の俊寛程、悲しい末期《まつご》には遇《あ》はなかつたであらう。――さう云ふ心もちを与へる限り、「苦しまざる俊寛」を書いたものは、夙《つと》に近松にあつたと云ふべきである。
 しかし近松の目ざしたのは、「苦しまざる俊寛」にのみあつたのではない。彼の俊寛は「平家《へいけ》女護《によご》が島《しま》」の登場人物の一人《ひとり》である。が、倉田《くらた》、菊池《きくち》両氏の俊寛は、俊寛のみを主題としてゐる。鬼界《きかい》が島《しま》に流された俊寛は如何《いか》に生活し、又如何に死を迎へたか?――これが両氏の問題である。この問題は殊に菊池氏の場合、かう云ふ形式にも換へられるであらう。――「我等は俊寛と同じやうに、島流しの境遇に陥つた時、どう云ふ生活を営むであらうか?」
 近松と両氏との立ち場の相違は、盛衰記の記事の改めぶりにも、窺《うかが》はれると云ふ事を妨《さまた》げない。近松はあの俊寛を作る為に、俊寛の悲劇の関鍵《くわんけん》たる赦免状の件《くだり》さへも変更した。両氏も勿論近松に劣らず、盛衰記の記事を無視してゐる。しかし両氏とも近松のやうに、赦免状の件《くだり》は改めてゐない。与へられた条件の内に、俊寛の解釈を試みる以上、これだけは保存せねばならぬからである。
 丁度《ちやうど》その場合と同じやうに、倉田氏と菊池氏との立ち場の相違も、やはり盛衰記の記事を変更した、その変更のし方に見えるかも知れぬ。倉田氏が俊寛の娘を死んだ事にしたり、菊池氏が島を豊沃《ほうよく》の地にしたり、――それらは皆両氏の俊寛、――「苦しめる俊寛」と「苦しまざる俊寛」とを描出するに便だつた為であらう。僕の俊寛
前へ 次へ
全21ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング