する、云はばヒユマンな閃《ひらめ》きを捉《とら》へた、手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?
十 世人
西洋雑誌の載せる所によると、二十一年の九月|巴里《パリ》にアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを読んでゐると、かう云ふ一節を発見した。「わたしが人生を知つたのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である。」しかし世人は書物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。
ルノアルの言つた言葉に、「画《ゑ》を学ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名画を見るよりも、自然に学べと云ふかも知れない。
世人とは常にかう云ふものである。
十一 火渡りの行者
社会主義は、理非曲直《りひきよくちよく》の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、恰《あたか》も火渡《ひわた》りの行者《ぎやうじや》を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。
十二 俊寛
平家物語《へいけものがたり》や源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》以外に、俊寛《しゆんくわん》の新解釈を試みたものは現代に始まつた事ではない。近松門左衛門《ちかまつもんざゑもん》の俊寛の如きは、最も著名なものの一つである。
近松の俊寛の島に残るのは、俊寛自身の意志である。丹左衛門尉基康《たんのさゑもんのじやうもとやす》は、俊寛|成経《なりつね》康頼等《やすよりら》三人の赦免状《しやめんじやう》を携へてゐる。が、成経《なりつね》の妻になつた、島の女|千鳥《ちどり》だけは、舟に乗る事を許されない。正使《せいし》基康《もとやす》には許す気があつても、副使の妹尾《せのを》が許さぬのである。妻子《さいし》の死を聞いた俊寛は、千鳥を船に乗せる為に、妹尾太郎《せのをたらう》を殺してしまふ。「上使《じやうし》を斬りたる咎《とが》によつて、改めて今|鬼界《きかい》が島《しま》の流人《るにん》となれば、上《かみ》の御《お》慈悲の筋も立ち、御《お》上使の落度《おちど》いささかなし。」この英雄的な俊寛は、成経康頼等の乗船を勧《すす》めながら、従容《しようよう》と又かうも云ふのである。「
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