れもの》のせゐか、気持が悪いと申したぎり、朝の御飯も頂きません。わたしと台所を片づけた後は片手に額を抑へながら、唯ぢつと長火鉢の前に俯向《うつむ》いてゐるのでございます。ところが彼是《かれこれ》お午《ひる》時分、ふと顔を擡《もた》げたのを見ると、腫物のあつた下唇だけ、丁度赤いお薩[#「お薩」に傍点]のやうに脹《は》れ上つてゐるではございませんか? しかも熱の高いことは妙に輝いた眼の色だけでも、直《すぐ》とわかるのでございます。これを見たわたしの驚きは申す迄もございません。わたしは殆ど無我夢中に、父のゐる見世へ飛んで行きました。
「お父さん! お父さん! お母さんが大変ですよ。」
 父は、……それから其処にゐた兄も父と一しよに奥へ来ました。が、恐しい母の顔には呆気《あつけ》にとられたのでございませう。ふだんは物に騒がぬ父さへ、この時だけは茫然としたなり、口も少時《しばらく》は利かずに居りました。しかし母はさう云ふ中にも、一生懸命に微笑しながら、こんなことを申すのでございます。
「何、大したことはありますまい。唯ちよいとこのお出来に爪をかけただけなのですから、……今御飯の支度をします。」

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